昭和五十六年十月十三日 朝の御理解
御理解 第五十九節 「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげ でこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを 落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜 び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」
皆さんが合楽で何を習い、何を学ばせて頂くかと、合楽理念である。それを実験実証現わしていく事から、絶対信が生れてくる。いわゆる信念が生れてくる。果たして合楽で習うた事を、皆さんがどれだけそれを、実際、実生活の上に現わしておいでであろうか。
お取次を頂いて、お願いをする、おかげを頂くという事は、まあ、皆んながおかげを受けておりますけれども、習うた事を覚えておいて、実生活の上にね、それを実験さしてもろうて、実証させて頂く。そこからしか、私は信念というものは生れてこないと思う。ね。
昨日、日田の方から参ってくる或る婦人の方が、丁度息子さんが高校で、いうなら思春期に入って、まあ親から見ればいろいろと心配なような、たとえて申しますと、もうえらいおしゃれをするようになったり、普通の洋服じゃいけんというようになったり、というような事から、ほら、お母さんが心配するのも無理はないのです。一人息子ですから。
けれども私は申しました事でしたけれども、大体ここへ来てから、ああた方がね、やっぱ、こげん時でも成り行きを大事にせなけりゃいけんでしょうかていうからね、まるきり私が為に成り行きば大事にしよるごたるのち、私は申しました。
ね、ああた方がね、より良いおかげを、大きなおかげを頂きたいと願っておるじゃないかと。より大きなおかげを頂きたい為には、なら、より大きなおかげの受け物を作らにきゃならんじゃないか。
昨日の言葉ですから、昨日の御理解を引用してね、例えば一人でに物が出けるようなおかげを頂く為には、兎角信心は地を肥やせとおっしゃるからね、いよいよ自分の考えでは、はばからないような困ったとか、心配とかという、そのままの事こそが、心の肥料にもなりゃ、心を豊かに大きくする。
おかげを、大きなおかげをより頂きたいと願うから、私はそういう神様が、修行もさして下さるのだからね。私がここで成り行きを大切にせよ、土の心でいけというから、親先生がああいいなさるけんで、そうするというのじゃないじゃろうがと。皆さんがよりおかげを頂きたいからでしょうが。より大きなおかげを頂く為には、よりよい心の状態、よりよい大きな心を頂かなければならん。
そういう働きが起こってくるのを、ここでも、こげな時、やっぱ黙っておりゃなんじゃろろかと、成り行きを大事にする事が、いうなら黙って治める事が、まるっきり私の為に、あんなだんななら、成り行きを大事にしていきよるとの、土の心でいきよるのと言うた事でございます。
皆さんもそうでしょう。各々がかげを頂きたい。頂きたいならば、やはりいうなら、合楽理念に基づくその生き方、受けかたというものがね、私は今ここで皆さんが、習うた事を覚えておいてとこうおっしゃるが、合楽で習うた事を覚えておいて、そういう問題の時に、それが、習うた事がすっと出けていくようなね、おかげを頂いて、はじめて、成程、合楽理念はすばらしいなあ、普通ならこういう時に心配でたまらんのだろうけれども、ここ心配する所か、かえって御礼を申し上げて通っていけれるといったような、私は信心を、皆さんが覚えて、習うておるのですから。それを体得して自分の物にしていく。チャンスに恵まれた時に、それを、いうならば続けていく事によって、神様の絶対な働きというか、絶対信が生まれてくるんですね。
昨日は、八時から十一時まで、日蓮の映画があるから見なさいといって、ちゃんと合わせてくれてありましたから、それを見せてもらいました。萬屋錦之助が演ずるところの日蓮で、大変面白く、まあ、出けとるものでしたが、見ながら私は、ある意味で、私に似てるなあと思うて見ました。ね、例えばね、世界のまあいうなら平和の為に、あらゆる宗教の者が、手に手を取って、手に手を取り合って世界平和の為に、尽くそうじゃないかといったような、宗教会議のようなものがあってるわけですね。私は、そんな、その中村錦之助がね、そういうふうな事をいう所があります。錦之助ちゅうが、日蓮がね。時の執権、北条時宗ですかね、が、他の宗教、その時分は鎌倉時代ですから、禅が全盛の時分ですから、あらゆるいろんな宗教があるが、宗教者が全部手に手を取り合って祈ってくれないかと。蒙古襲来というような、その国難にあたってくれないかというて頼む所があります。ところが絶対それは嫌だとこういうのです。
ね、他の宗教が、例えば如何に行くち立ち上がったところで、それでいうならば、合楽的にいうならば、おかげの頂ける筈はないね。仏教の仏道を間違えておる、いうなら、宗派ばっかりだから。どこまでも南無妙法蓮華経一本でなからにゃいかんち言い切るところがあります。それは、自分はひょっとすると命にかかわったり、島流しにあったりしなければならない事を、覚悟の上の事でございましょうけれども、それをとうとういれないという。私もやっぱ、そう思いますですね。
もう私は、教団、一昨日から昨日にかけて、この玄潮社の記者の方と、新聞、写真班の方達とが泊り掛けでみえておりましたよね。それでまあ、合楽が非常に評判が悪いという。それで私が申しました。みんな誤解ですよと、皆の。合楽に来て見ると分かるんです。ね、ですから誤解が解けた時にはね、私は妥協しません。誤解が解けた時には、誤解しておった人達が信心が進みますち、私は申しました。いやもう、貴方がそう言いなさるなら、私はだから悪口も歓迎と私は言うた事でしたけどね。だから悪口を言うたり誤解して兎やこう言うておる人が、私が、赤面弁慶になって説明したところで分かりゃせん。けれども、その誤解が本当に解けた時には、その人の信心が、あいた、こりゃ、合楽の言うとがほんなこつと言う事になるんですよと。というふうに私は確信しとりますから妥協はしません。
例えば、世界の平和、「寒天危地」と言われる、寒い天、危うい地と言われるのを、歓びの天、喜びの地、いわゆる「歓天喜地」にしていく、いけれるのは、金光教より他にない。それも合楽理念を以てする他はないと私は何処ででも断言します。それを確信しておるからです。
そういう映画を、私、見せて頂いておる時に神様から頂いたのがね、子供がね、天気を願う時に、てるてる坊主をこう下げるでしょう。あのてるてる坊主をね、片一方の手でぎゅうっと、こう握りつぶしたところを頂いたです。どういう事だと思うですか。
例えば、日蓮の、そうした、まあいうなら、信じて疑わない、ね、まあいうならばお釈迦様は日蓮一人の為に働いて下さるんだと。いわゆる滅法の世界ですかね、もう仏教がいよいよおしまいになるという時にね、日本と東の国にまあ偉い坊さんが現われる、それが自分だと確信している訳です。だから勿論、お釈迦様の教えを確信して、いわゆるお釈迦様がいよいよ最後というか、晩年の頃に現わされたいわゆる法華経を信じて、だからそれ以前のものは皆違っているんだと間違っているんだという、まあところからでしょうね。ね、海の水が鎮まったり、又はその旱天続きの時に、誰が祈っても出来なかったのが、日蓮が祈る事によって、その雨があったり、いうなら天地を自由にする様な働きのところが、まあ演技されます。ね、そういうところを、私、見せて頂いて、兎に角信じて疑わない事が天地をも動かしておる。
いわゆる、てるてる坊主という事は、降る照るの事でしょうがと。降る照るの事も、握りつぶしてしまうような、降るはずのが、降るはずのお天気が、お天気になるほどしの、いうならば、力というものを、まあ日蓮は持っておられた方であろうと思うです。だから、これは、そういう程度ならね、あらゆる宗教家の熱心なところに、そういう事は現われますけれども。
本当に人間が人間らしゅう助かっていく手立てという事は、合楽理念による他はないと、まあ私は確信しておりますから、皆さんにもそれを聞いて頂くのですから、皆さんもそういう確信を、いよいよ高めていく。そういう信心を、いよいよ自分のものにしていくという精進。
それには、今、私が日田の方にお取次さして頂いたようにね、合楽理念はどういうふうに説くか、教えるか、この事は黙って治めるが、事の事は治められない。こういう事でも黙って治めんならんでしょうか、まるっきり人ん為に黙ってそういう修行をしよるごたるの。あんた自身がおかげを頂きたい、あんた自身がもっと大きなおかげを頂きたいと願っておるから、そんな受け物を作らせて下さろうとする働きを無駄にしてどうするかというように、ここでは説きます。教えもします。だからそれを実験しなければ駄目なんです。
昨日も、ある商社の方が、もう倒産寸前にあります。それを支店長が心配して、遠方の支店の支店長が、ここに兎に角どういう事しょんなさるか分からんけんで、合楽の金光様、金光様といわれるから、金光様の先生に一ぺん尋ねてみたいというので、昨日わざわざここにやって来てるんです。そん時、私は、丁度ここでした時に、歌舞伎の御本が送ってきておりましたから、開いてみましたら、昨日は丁度美登利会でしたから、すぐ立たんならんと思ったけれども、これが、さあ、好きなもんですから、開けてみてから、ちょっとこう見よった。ね、見よったら、いうなら、いうなら時間がちっとばかり遅れたから、丁度わざわざ遠方から参って来ておるその人がここにお届けに出てまいりました。
だから、私が見よるその雑誌をを示しながら話すんですよ。今ね、あんたん方の社長はね、丁度ここのこげな幸四郎演ずるところの、こりゃ武蔵坊弁慶なんです。勧進帳なんだ、勧進帳と同じ事。もう、普通からいうたら、もう通れる所じゃない所を通っておるから、その、なら、支店の支店長であるあんた達が四天王の、これには四天王(支店の王)がついていますね。としてそれに、そりゃどうなるかというて責めるような事でなくて、兎に角、大将しっかりやつて下さいというふうに、応援してくれるような生き方にならせて頂いたら必ずそこには富樫が、富樫というのが関守ですね。通せん所でも通してもらえるようなおかげになるよと。問題は、あんた方の社長の、だからここでの弁慶じゃないけれどもね、勧進帳の空読みでも出ける位な度胸がね、今いる時なんだ。だからあんた達が、がちゃがちゃいうとね、その出来る度胸も崩れてしまう。だから出かかる。いうならば、くしゃっともなっとる社長でも、ああた方が頑張って下さいというと、ここに元気が出て、いうならば、この弁慶じゃないけれども、度胸でそこを渡る。いうならば、信心に度胸がつく。そこから通れんはずの所が通れるだけじゃなくて、それによって、社長が力を受けるでしょう。店自体が徳を受ける事になるでしょう。だから四天王の一人になったつもりで頑張って下さいち、まあ申しました事でございます。
だから合楽で日頃習っておるという事がです、ね、いよいよこういう時にはこういう合楽理念をもってすれば、ここを頂かにゃならんという事を覚えておいて、いよいよその難儀に直面した時、いよいよその問題に直面した時に、それを自分のいよいよ力ともしていく手立て。又は、それを肥料ともしていく手立て。いよいよ自分が豊かに大きくならせて頂く事の為の手立てとしていかなかったら、私は習うておうておかげを頂いて、有り難い、いわゆる神も喜び金光大神も喜ぶ、氏子もの喜びといつたような喜びにはなってこないとおもう。
聞いただけじゃいかん、習うただけじゃいかん。それを実験して、おかげでこういうおかげにもなりましたという時に、始めてね、三身一体というかね、神も氏子も喜べるというおかげになってくるのです。
なら、ここではだから、ここでは、神が教えた事をという事を合楽で習うた事をどれだけ生活の上に実験し現わしていっておるかという事でございます。そこから確信が生まれてくる。そこから天地を自由にするほどしの、それこそ、てるてる坊主を握りつぶすほどしの、力も働きも生まれてくるという事になります。 どうぞ。